1.スター・ウォーズ第1作(エピソードⅣ)の誕生とダース・ベイダー (2004年10月1日)
スター・ウォーズは、「活劇を楽しむ」という昔ながらの娯楽映画を復活させた作品である。その成功の理由には、時代のタイミングと特撮技術がかみ合ったことがあげられるだろう。
「ウォーズ」に示されているように、この映画は戦争物である。活劇に集団的な戦いはつきものといえるが、現実に起こる戦争は悲惨さ以外の何ものでもない。ベトナム戦争に代表されるように、20世紀の後半は戦争映画はアメリカにおいて勧善懲悪の地位にはいられなくなり、現実の矛盾や愚かしさや悲惨さを感じさせるものとなっていった。スター・ウォーズが登場したのはこうした時期であり、徹底的に絵空事として、つまり、はるか大昔の私たちの知らない宇宙の出来事という舞台設定がなされることで、夢物語を楽しむ安心感を観客に提供できたし、人々もそれを喜んで受け容れた。
ファンタジーの世界に入るには、シナリオだけでは映像にならず、どう見せるかが重要となる。ちゃちな道具立てでは、もともとが絵空事なだけに、たまらなく嘘くさくなってしまう。スター・ウォーズが成功したのは、冒頭の巨大な宇宙戦艦の描写に代表されている。映画のスクリーンの大きさがこれほど生かされたシーンは類を見ない。インパクトをもったこの精密なリアリティがあって、観客は作品世界に引き込まれる、つまり、作り物とわかっていながらも、この世界を楽しもうという心構えになれるのである。「視覚効果技術がこの作品の主人公か」と公開当時に評されたほどに、メカニカルなリアリティへのこだわりがこの映画の成功の一因になったのは確かである。
スター・ウォーズのエピソードⅣは、シリーズで映画化された最初のものであり、大ヒット作品である。先に触れたように、この作品の意図は娯楽活劇の復活だったが、個人の内面を描くといったドラマ性には乏しいものであった。正確に言うと、そうしたシーンはいくつもあるのだが、個々の人物のキャラクターとしての存在感は、俳優の個性もあるが、主人公であるルークにしてもレイア姫にしても薄いといえる。考えてみると、ある意味それは当然といえ、典型的な勧善懲悪の世界に、人間存在の矛盾や葛藤が持ち込まれれば、誰が正しくて誰が間違っているかなどと簡単には言えなくなってしまう。この点は、生みの親であるジョージ・ルーカスが、Ⅳを最初の作品としたねらいが成功したといえる。9のうちの6作品目が来年公開される現在から見ると、Ⅳはシリーズの流れの上で、Ⅰと並んで単純明快な勧善懲悪ものにしやすい内容だったのである。
さて、ダース・ベイダーは、やっつけられるべき敵役として、Ⅳに登場する。彼も他の登場人物と同様にドラマ性には乏しいが、存在感はとても大きいキャラクターである。これは視覚的にも聴覚的にもいえることで、ルークやレイアといった生の人間とは比較にならないほど作り込まれたキャラクターとなっている。
まず、視覚的には、ひときわ長身でまず他を圧倒しており、その黒ずくめの衣装が陰鬱としたものを連想させる。さっそうとマントをひるがえして、ストーム・トルーパー(帝国軍兵士)を従えた様は、人間的な暖かさや感情をシャットアウトしており、ナチスなどの統制された集団的な悪の力をイメージさせる。個性的なのは、その被っているマスクである。目と口の辺りが強調された漆黒のマスクは、ロボット的でもあるが、人のどくろにも似て見える。ヘルメットはナチスのヘルメットや、日本の兜を連想させる形態である。そして、さらに聴覚的な要素が加わる。あまりにも独特な呼吸音である。ダース・ベイダーの物真似をしようと思ったら、この呼吸音をすれば、すぐにそれとわかるほどである。呼吸音はマスクという機械装置を通したものであるが、人の呼吸であり、悪の権化であるベイダーが人間であることを暗々裡に印象づける。このように観客は、ダース・ベイダーを視覚イメージだけでなく、音声的な聴覚イメージとしても記憶することになる。
ストーリーとしては、とりあえずエピソードⅠ~Ⅵという6作を通した主人公が、実はダース・ベイダー(アナキン・スカイウォーカー)であることからすると、ベイダーの存在感が初めから大きいのは、当然だったのかもしれない。Ⅳにおけるベイダーは、銀河皇帝に仕える悪の僕・敵役のニュアンスが強かったわけだが、つづくⅤからは、ルークの個人的な父という役割に大きく変わることになる。
2.シリーズにおけるダース・ベイダー
当のダース・ベイダーはというと、続編のⅤそしてⅥと進むにつれて、マスクの下の見えない顔に変化が生まれていくことになる。父であるベイダーは、息子のルークに出会うことで、暗黒面(ダークサイド)からこちら側の世界へと戻ってくるのである。Ⅵのクライマックスでは、息子の命を助けるために、ベイダーは自らが仕えていた皇帝をついには葬り、最後はそのマスクをはずして、ルークの腕の中で息絶えるのである。ここに至ってベイダーは、なりきれなかった父親に最後の最後でなれたのであろう。
既に公開されているエピソードⅠとⅡは、ダース・ベイダーになる以前の、アナキンの子どもから青年期の時代を描いた作品であるが、それらと照らし合わせてみると興味深いことが推測される。アナキンは、父親を持たずにこの世に生を受けた特別な子どもであり、予言を実現する者と見なされている。その予言とは、世界の乱れたフォースのバランスを取り戻す者が現れるというもので、いわばこの世の救世主である。父親なく生まれた救世主という設定からは、イエス・キリストの話が連想される。しかし、アナキンは優れた神の子ではなく、あくまで人間として成長していく。能力は高いかもしれないが、それがあだになって高慢な態度を示す未熟な若者であり、また、その年代ゆえの激しい心の動きを体験する若者でもある。恋に焦がれもするし、傷つきに怒り狂うのである。アナキンにとって不幸だったことは、将来のモデルとなるような父親像を担う人物がいなかったことであろう。肉親としての父親はそもそも存在しないし、彼を見いだしたクワイ・ガンは亡くなり、師匠にもうまく恵まれなかった。そこに影のようにつけ入ったのが、共和国元老院の議長であるパルパティーン(ダース・シディアス)であり、彼こそが後の銀河皇帝である。キリストにとって天にいる父なる神の位置を占めたのは、アナキンにとっては狡猾で邪悪な破壊の主、言い換えれば「怒りの感情=ダークサイド」だったのである。
エピソードⅢを待たねば詳細はわからないが、Ⅱにいたって見事なのは、アナキンが運命にもてあそばれるのと並行して、この宇宙世界がいつしか大規模な戦争に突き進んでいく様である。戦争は勧善懲悪などではなく、陰謀が重なり合った非常に混沌としたものである。はっきりしているのは、大義の名の元に軍隊がつくられ、兵器が所有された時点で、破壊と恐怖の主にその身は食われてしまっているということである。その辺りが描かれていることで、このシリーズはとても厚みを持つようになった。現代の私たちがおかれている状況も、戦争と無縁ではなくなってきているが、どこか似ていないだろうか。
ダークサイドに陥るというのは、怒りに身を任せ、それに乗っ取られてしまうことである。怒りは、非常に人間的な感情であり、なくせるものではないし、なくす必要もないのだが、乗り越えるというのはことのほか困難なものである。アナキンに科せられた重い試練は、まさにそこにある。フォースのバランスを回復するという予言は、怒りの感情と向き合い、それに乗っ取られるのではなく、自分自身を回復することを指しているのである。Ⅱにおける母の不業の死、また、Ⅲにおいて示されるであろう妻・パドメの死によって、アナキンは愛する人を失い、奪われ、己が無力であることに怒り狂い、ダークサイドに身を転じるのである。こうしたテーマは、現代におけるテロに代表される怒りと憎しみの連鎖に重なる。
アナキンが、本当の意味で人間としての父親になるには、つまり、予言が成就するためには、それから長い時を経ねばならなかった。先にも触れたⅥのクライマックスでは、息子であるルークが、アナキンと同じ状況におかれ、怒りに身を任せそうになる。しかし、アナキンの時とは異なり、ルークはその実の父を救おうとやってきたのであり、自ら剣を捨てたのだった。ここが、最大の山場となっていて、怒りの連鎖は止めうることが示される。息子から父への愛情に触れることで、ダース・ベイダーは人間としての父親である自分に目覚めるのである。そして、同一化の対象としていたネガティブな父親像であり、怒りと憎しみの象徴である銀河皇帝から、訣別するのである。
このように、個人レベルのアナキンの変化は、同時にその世界の大きな変化と連動していた。善なるものが最後には実を結ぶという意味では、勧善懲悪といって良いだろうが、シリーズを通して見ると、個人の心の動きと集団の心の動きを重ね合わせた、普遍的なドラマが描かれているといえる。怒りに身を任せてしまう人間の性(さが)とその苦しみを体現したのが、ダース・ベイダーなのである。