私は、最初に勤めた大学が、鳴門教育大学の生徒指導講座というところでした。ここは、大学院大学で、学校の教師たちが、再研修で修士課程に入学し、現場をいったん離れて、これまでの自分たちの教育活動を振り返り、今後に生かすための力を蓄える場でした。現在では、組織の改編があって、生徒指導講座という名称はなくなりましたが、今も教育相談や非行に取り組んでいる先生たちが各地から集まって来られています。
そうしたご縁がたまたまあって、学校の先生達と知り合いになる機会になりました。私の薄っぺらな教師イメージが、ずいぶん変わりました。一口に教師・先生と言っても、当たり前の話ですが、いろいろな方がいます。
私がやってきた心理療法の実践や研究から見て、全く共通する内容を、教師という立場で形は違いますが、実践されている先生がおられることを知ったのは、大きな収穫でした。もちろん、いろいろな先生がおられますから、皆さんがそうだというわけではありません。
鳴門教育大学から他の大学に移ってからも、訪問カウンセラーやスクールカウンセラーとして、学校現場に関わる機会を持ちました。その後も、学校の先生達と研究会をしたり、これからどのようなことが学校でやれるのかを、一緒に考えています。
そして、2008年から京都教育大学大学院 連合教職実践研究科の生徒指導力高度化コースに異動しました。はじめの職場だった鳴門教育大学によく似た大学院といえ、学校臨床を中心に教育に携わっています。
トップページにあげていますが、2016年に刊行した教職用のテキストがあり、『子どもを育む学校臨床力』というタイトルです。
「学校臨床力」とは耳慣れない言葉だと思いますが、教職大学院で仕事をする中で、生徒指導にかかわる教師の実践力をもう少しちがった表現で言えないかと思い使うようになりました。
現在は、次のように考えています。
「学校臨床力の基本姿勢は,他者(子ども,保護者,同僚等)の体験と,教師自身の体験の双方に意識を向けること,つまり相手とのかかわり合いに開かれた「感性」を大切にしながら,学校教育の枠組みの中で,子どもの成長に何が必要かを見立て,実践することといえる。
また,それは個人的な教師の能力としても,学校の組織力としてもとらえることができる。教師個人としては,学級など「集団」へのかかわりと,一人ひとりの子どもとの「個」のかかわりがあり,さらには保護者との連携や対応がある。学校組織としては,チームとしての機動性を高め,子どもを人間関係のネットで抱える働きがあり,また個々の教師をバックアップするような,支持的な関係性の構築という面が含まれる。
教師個人の体験に焦点を当てると,他者とのかかわり合いにおいて,自分の思いと言動との間にどのようなズレが生じているかに敏感であり,そのズレにいかに対処していくかが学校臨床力の鍵になるといえる。例えば,子どもとの関係において,思いとは異なる偽りの言動を教師がつづけることは,子どもにとって成長促進的な関係性になりにくいことは,容易に想像されるだろう。つまり,教師に必要とされることは,カウンセリング・心理療法のセラピストの姿勢として重視される「自己一致(self-congruence)」あるいは「本気さ・自然さ(authenticity)」に共通しており,そうした自分自身に向き合おうとする教師の姿勢が,子どもや保護者からの教師に対する信頼感につながると思われる。
以上をまとめると,「学校臨床力」とは,教師(学校)が子ども(保護者)とのかかわり合いに開かれた「感性」をもち,相手だけでなく「自己対峙(self-confrontation)」しながら何が問題であるのかを見立て,子どもの成長につながる実践を模索し積み重ねていくことといえるだろう。」